昭和45年12月22日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つと言うが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つ事はあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 ここでこの45節を頂きます。慢心が出るとおかげを取り外すぞ、と。そこで慢心が出んように、いや慢心の出様がない様な信心を頂かなければならん。ね、おかげを落とさない為に、頂いたおかげを取り落とさん為に、慢心が出様がない、ね、慢心を出さんどころではない、出様がない程しのおかげを受けなければならん。そこから天で頭を打つ事もなからなければ、神様にお叱りを受けるような事もない。ますます、神様のご寵愛を受けていく事が出来る。
 身に徳がつくほどかがんで通れと、とかく出る釘は打たれる。かがんで身に徳がつけば屈まずにはおられんのであり、又自ずと屈んで来るのである。それは三宝様と同じ事、穀物、ね、実が入れば入るほど、実が入ったから頭を下げたのじゃない。ね、実が入ったから自ずとさがっとるのである。その自ずとと言う所に身に徳が必要なのである。人間は身代が出来たり、先生と言われると、ね、所謂いかに人間が身代が出来たり先生というのは、人から敬称をもって呼ばれると言う事でしょうね。
 なん何、長がつくような呼び方、社長と言われる様になったり、ね、何何会長と言われる様になったりと言う事であろう。そうすると自分がもう愈々ほんとに俺は社長だぞとこういわんばかりに胸をそりくり返ってしまうと言う様なところの事でしょう。人間は身代が出来ると身代が出来る、ね、お金が出来る所謂物持ちになる。そうするともう必ずと言うて良いほど、やはり頭が下がるどころか人を見下げる、貧乏人が何を言うかと言った様な心の状態になる。
 それでもなら私共はです、どうでも分限者にもなりたい。又は人から先生と言われ、何々会長と言われる程しのおかげも頂きたい。そこでですそこで矢張り身に徳を受けるより他はないという事になる。身に徳を受けてから身代が出来、身に徳を受けてからいうなら人から敬われる様な、敬称をもって呼ばれる様な人物にならして頂かなければ、一番最後の所の必ず人間ていうのは、慢心を出るからおかげを落とす事につながる。信心の徳を受けずして財産が出来た。信心も出来んのに言わば祀り上げられた、ね、
 という事はもう必ず天で頭を打つ事になるのであり、必ず慢心が出ておかげを取り外すという風にいうても差し支えがない程しに、人間というものは思い上がりが強いんだ。人間ばかりはもうどうにも仕様がないと、ま思うのですけれども。そこでね私はその身に徳を受ける。どんな場合にでも、どんなにそんなら先生と言われるようになっても、実意丁寧所謂低姿勢でおれれる。
 どんな身代が出来て財産家、財産持ちと言われるようになっても、愈々謙虚になっていけれると言う様なおかげ。世に三宝様を踏むな、三宝様踏むと目が潰れると言われるが、その三宝様を踏むような事のない。踏んで済むおかげを受けるという事は、どうでも身に徳を受けなければならんという事になる。そんなら身に徳を受けるという事は、どう言う事であろうか。
 昨日の朝の御理解に、障子一重がままならぬ人の身と、障子一重がままならぬ人の身であるという事を分らして頂く事の為に信心しておると言うても良いと言う事です。障子一重がままならぬ人の身であると言う事を、本当に理屈を聞いて分るとかいうのではない。只分かるというのでなくて、自分のその言うなら魂がね、魂そのものが神様のおかげを、所謂障子一重がままならぬ人の身であるという事の自覚が出来る。
 そこから信心が真剣にもなって来る、熱心にもなって来ると。だから先ず何と言うても、その根底として障子一重がままならぬ人の身であるという事を分らせて貰う信心と言う事だったですね。そこで私はそういう信心を分らせて頂く事の為に、昨日は元日の心でと言ったような意味の御理解を頂きましたですね。なかなか、元日でないのに元日の心になるという事は難しい。
 けれどもそのま元日の心でと教えて頂くから、本気でひとつ元日の心になろうと、元日の日にはいうならま言葉の上にでも、言いにくい事を言う事はするまい。ま出来るだけ、口を開ければ人が喜ぶような、いわば目出度いような事を言おうと心がける。だから今日は一日その事に取り組まして頂こう、今日は元日の気持ちでもう目出度い事、喜ぶこと、人が喜ぶような事しか言うまい、と例えば心にかけるだけでも、いいと言う様な御理解頂いたでしょう。ね
 、そこから生まれてくるのが信心体験だと、いわゆる大晦日の心である。この辺の所が、霊妙不可思議なんですね。御教えを頂く、御教えを本気で行ずる。今日は本気で元日の心でぞと、心の中に思いを定めさせて頂いて、只今申しますような精進をさせてもらう。そういう一日をです、心にかけ通しにかけさせて頂いて一日を終るとです、時に振り返って思う事、それが信仰体験。
 成る程、ああいう心がけになりゃ、ああいうスムーズなおかげになるなあという事です。なるほどあそこに引っかかるところが、引っかからんで済むなと、今日もおかげ頂いて有難いということになる。いわゆる大晦日の心。だから、そういう信心を私は繰り返させて頂いてです、ね、そういう信心体験から生まれてくるものは何かと言うと、成る程、神様のおかげを頂かなければ幸せにはなれんという事。成る程、神様のおかげを頂かなければ、事はスムーズに運ばんという事。
いわゆる神様のおかげを頂かなければ、立ち行かん私達だという思いがいよいよ強うなってくる。昨日、宮の陣の阿部先生から電話がかかってきた。若先生が、花畑教会の教会長であります石橋先生が、いわゆる阿部先生のためには、実際のお父さんに当たられる訳ですね、が、亡くなられた。それで二十三日が告別式があるので、その祭員をお願いしたいというお願いのお電話であったという事であります。
 長い間胃癌で病院でも、どうせ何時何時までしか持てない命だから、もう家に帰って家で養生されたが良かろうというような、本人には言うてはないでしょうけれども、そう言う事で帰って自宅で療養しておられた訳でございます。本当に一生をお道のために、いわば捧げられた尊い御一生であったと思わせて頂くのですけれども、その告別式が二十三日、亡くなられたのが昨日。
 それをね、聞かせて頂いてから、本当に万事万端の上に、ご都合お繰り合わせを受けられて、お国替えのおかげを受けておられるなあと、これは私が思うた。人は分らん、けども、私はそう思わなければおられない。善導寺の親先生がご祭主だし。ですから、もうその昨日からあちらへお出でておられる。遷霊やらありますからね。これが一日早くお国替えになっておったら、どう言う事になっただろうかと思う。
 合楽の報徳祭が、もうそれこそ、また大変変わったことになっておっただろうと思う、ね。ここのご祭主を勤めて下さる親先生が、久留米におい出られなければならなかったり、ね、または宮の陣の阿部先生はなおさらの事、ご自分のお父さんが亡くなられたんですから、とてもおい出られる事もできなかったろうしここに。ね、本当にね神様のおかげを頂かねば立ち行かんなと言う事がわかるでしょうが。
 そのなら神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと言うその前提としてですたい、本当に障子一重がままならぬ人の身であるという事が、段々分らせて頂いて、ね、神様のおかげを頂かなければ立ち行く事ではないのですから、自分の我情を出さん、我欲を出さん。そういう生き方ののなかからです、成るほど神様の一分一厘間違いのないご守護の中に総ての事が動いているんだなと言う事になる。
 頭の上げようがないですね。いかに先生と言われても、威張られるとかね、本当に神様のおかげの事なのですから、私が身代が出来たから、私が先生と言われるようになったから、いわば頭を下げる事を忘れると仰るが、忘れるも忘れられない、もう頭は下がりどうしに下がっておらなければならない心地が致します。神様の、この様な一分一厘の間違いのない働きの中に、御大祭が、いわゆる報徳祭が奉仕されたと言う事を、その翌日になってみて、改めて分らせて頂いた。
 信薄い人は、ま腑が良かったとだけで済ますかもしれません。けれども障子一重が愈々ままならぬ人の身であると言う事が少し分り出してきた。神様のおかげを頂かなければ立ち行く事ではないのだから、自分が、如何にバタバタしたところで、どんなに齷齪したところで、どんなに我情我欲、自分の思いをそこに募らせたところで出来る事ではない。いや出来たにしても、それは不自然な結果しか生まれてこない。
 いわば腑が良かったと言ったような結果になって出てこない。私はだから身に徳を受けるという事はね、愈々障子一重がままならぬ人の身であるという自覚を本当なものにする事の為に、愈々例えば元日の心、大晦日の心にならせて頂く日々であるという事、そこから生まれる信仰体験、ね、そういう体験が例えば昨日現れた訳である。成る程神様のおかげを頂かなければどんなに賑々しゅう、どんなに盛大にお祭を仕えようと例えば、我情我欲をもって思うておってもです。
 言うならばそういう当てをしておった事は、向こうから外れて行くと言う様な、結果にしかならないものがです。ね、その様な素晴らしいタイミングの中におかげを受けておったんだなあ、神様のそういう深いお計らいの中に、おかげを受けておったんだなあと言う事が、もうその事から思うと、もう次から次へと全ての事が、神様のおかげを受けておったなと言う事になって来る。所謂有難い勿体無いと言う事になって来る。
 そして愈々思わせて頂く事は、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだなと言う事になる。今日私四十五節を一遍、こうして読まして頂いて一番最後の所からずうっと申しましたね。油断をすな慢心が出るとおかげを取り外すぞと。ここの所からずっと説明したでしょう今日は反対から。慢心が出ておかげを取り外す事の無い、そこには慢心の出ようが無い程のおかげを頂いたら、おかげを落とす事はない事になる。
 はぁ段々おかげを頂いてきたから、これは慢心起しちゃならんならん、慢心を起こしちゃならんとと言うて、思うとかにゃならんと言う事じゃないのである。そこで始めから神徳を、身にに徳を受けておる人は有りません。身に徳がつけば言わばここにあります、おかげを落とす様な事にはなってこない。そこでです私共がここに、愈々分からせて頂かなければならない事は、身に徳がつくという身に徳を受ける事のための、愈々精進をさせて頂く事が信心である。
 またそれでなからなならんという事になります。身に徳を受ける所謂障子一重がままならぬ人の身であると言う事を、ほんとに本当に理屈の上では解ったんだから実感としてです、分からせて頂く事の為の修行をさせて頂こうと。そこから生まれてくる信仰体験、成る程神様のおかげを頂かなければ立ち行く事は出来んのだという思いが愈々募ってくる。もう既に身に徳を受けて行く所の修行が、その様に出来ていくのである。
 そこでです、ね、世に三宝様踏むな、三宝様踏むと眼が潰れると言うがとこう仰る。私共が、所謂神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという事がわかるという事はね、所謂心の目が段々開けてくるという事。神様のおかげが、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだと分かる。ね、その心の目が開けてくる。心の目が開けてくるから、所謂三宝様を踏まんで済む様になる。
 三宝様とはここでは、穀物の意とあります。いうなら大事なもの、大切なものなんですという意味なんですよ。そんなら私共が日々信心生活させて頂く上にです、愈々分らせて頂く事はね大切な言わば事柄、ここでは三宝様という事を、御物という意味で説いてありますようですね。そこでここでは御物も大切、けれどもここでは私が御事柄と言う。日々の事柄、ね、その事柄がです所謂大切なものであると言う事になります。
 日々起きてくる、ね、甘木の初代はここん所を所謂三宝様踏むなをそのまま実行し教えられたお方であるようですね。だから神様の御物というそれこそ米一粒でも、紙切れ一枚でも尊しとして押し頂いてお使いになった訳です。それがあの様な大徳を受けられた訳。所謂三宝様を踏む所か、それを押し頂かれた訳です。ところがここでは勿論それもそうですけれどもです、ね、
 いわゆる事柄、私共の周辺に起きてくるいろんな事情、事柄その事柄をです、ね、神様の御ものであると言われた様に、神様が私共に差し向けて下さる事柄ですから。御の字をつけて呼ばんにゃいけんのだ、御事柄だとこう言うておるわけです。ね、例えばならここにですよ、ね。なら今度の報徳祭でも、親先生が仰る通りにして、郡部だけの先生方にご案内をする様に、向うのとの事でしたから郡部だけの先生方にお願いした。
 五人の先生方にお願いをした。ね、ところが北野がみえられないでしょう。それから鳥栖がみえられないでしょう。たった先生方は三人しかみえない。だからそういう時にです例えて言うならば、あのなら言うならですたいね、ま代人でもでもね普通ならなら御信者さんに総代さんにでもですね。今日はこんな訳で先生がみえられませんから、私が代って参ってきたと言う様な事でもありゃ、まだまだええです。ね、
 言うなら奥さんでんよかけん参って来なさったっちゃ、よかごたあるもん。家はちゃんと勤めておるのだから。本当に俺んとこを着け込んどるけんでちゅうごたあるふうに、そう言うふうに頂く事は御事柄を有難く頂いた事にはならんのですよ。親先生もお出でられてから、そら困ったと言ってから、それをやっぱ言うておられる。だからそれを困ったと受けたりです、どうした奴じゃろうか、どうした事じゃろうかと、とにかく俺を馬鹿にしとるなといったような受け方では、御事柄じゃない。
 それはもう事柄になってしまう。それを神様がその様に私の上に、そういう事柄にならして頂いたのであるから、御事柄である。「いいえ、神様の御都合ですが」ち、私は申しました。で、私が祭員が七名で一人足らないようでしたから、あの桜井先生が昨日からみえとるけん、桜井先生にお願いしたらどうでしょうかち言うてから、親先生が仰る、あ親先生に申しました。「そらいかん」ちちからもう一遍に頭を振られた。
 福岡の弟子さんだからという意味でしょう。ところがどうですか、古賀先生が前の晩、喘息が起こってこられんと言うたのが、やって来たです。ね、おかげで丁度八名、四名づつ座らせて頂くいから八名のお繰り合わせを頂いた。いやそれこそ昨日もあちらへお礼に出らせて頂きましたら、本当に祭員が少のうしてもう気の毒かった。もうこれからは大祭ちゅうならば、他所のことやらは、他所のことやらは。
 神様、合楽の神様に対して相済まんから、こげなこつなかごたふうに、いっちょ話し合いせにゃんちちから、親先生が昨日いうておられました。けども私は申しました。佐田さんと熊谷さんと久富さんと一緒に行ってからお茶頂きながら出した。「いいえ、もううちの婦人会は、もうかえってもとらぁっとしてかえって良かったといいよりました」ち私が。また、ほなこてそうでしたもんね。
 ですからその事が却って良かったとして、皮肉じゃないですよ。その時その時が却って良かったとして頂く頂き方なんです。どうした奴じゃろうかどうした事じゃろうかというたら、もうそれは神様の御事柄にはならんのです。神様の御都合ですよと神様のご都合ですが、と言うて頂く所にです、所謂御事柄と言う事になるのです。三宝様を踏むなというのは御もの人間の一番大切なものは、命の根である所の穀物である。
 成程そういう命の根である所の穀物を踏むような事すりゃ、目がつぶれると言った様な事を昔の人が言うたのは当たり前の事。ですから、私共がその命のうえで、幸せの元である、幸せの根である三宝様と今日は申したんですね。人間の幸せの、幸福になっていく為の、おかげを頂く事の為の元である、その根は御ものであると同時に、御事柄であるという訳である。その御事柄を踏むような事をしない。
 その御事柄を大事にする。もうこげな事は困った事ですから、向さんやって下さいと言う様な事をしない。それをそれはこちらが損になる様事であっても困る様な事であっても、それを神様の御事柄として、こちらが合掌して受けていくという心がけになる事は。その御事柄を、ね、反対に向こうに蹴やる様な事をしないで、こちらに向けていくというのですから、言わば御粗末御無礼にならん、踏み着ける様な事にはならない訳である。だから心の眼も開けてくるであろう。
 心の眼が開けてくるという事は、ね、今まで困った事であると思うておった事が、有難い事で、本当のことがわかる、心の眼が開けてくると。そこで愈々本当な事が分ってくるから、ね、頭を上に上げる段じゃあない。下げ通しに下げとかにゃおられない事になって来る。天で頭を打つ事もなからなければ、ね、慢心が出ておかげが取り外す様な事もない程しのおかげが受けられる。
 身に徳がつく程、頭が下がってくると言う様なおかげを頂く。その為に愈々私共がです、ね、障子一重がままならぬ人であるという事を分らしてもらう。それをなら分ろう分ろうでは出来んから、分らして頂く事の為に教えに本気で忠実になれる。例えていうと、元日の心でとこう仰るが、そんなら、その日その日の御理解の中から一言でもよいから、心にかけ通しにかけさせてもらう。それを行じ守らせて貰う。
 必ず生まれる信仰体験。そこから本当に今日もおかげ頂いてと、いわゆる大晦日の心にもなる事が出来る。そして思う事は成る程神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだなという実感。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだなぁという実感、その実感を持って御事柄、御ものを大切にしていこう。そういう心でおるから、御事柄を腹の立つような、普通で言うなら事柄をです、いいえ、神様の御都合ですと合掌して受けていける。命の根である、穀物が命の根であるように。
 私共の幸福の元、幸福の根というのは、ね、その御事柄を事柄としてではなくてから御事柄として受けるところに幸福の根がそこにある。それをここでは成り行きを大切にさして頂こうというわけなんである。その時その時の出たとこ勝負、そこん所をそれは困ったことであっても、それを一応は合掌して受けていこうという生き方である。そういう事になる時にです、慢心がそういう信心を会得させて頂きながら頂いていく所の身代であり、または地位や名誉であり致しましたら。
 身代が出来たりまたは先生と言われるようになると頭を下げる事を忘れるという、成る程覚えとくだけじゃあ忘れる。はあこれは儲け出したっちゃ決してそん威張らんぞと。人から先生と言われるごとなったっちゃ決してその、それを鼻に掛けないぞというふうにね。覚えとこと言う様な事ではだめ。矢張り身に徳が付くほど、身に徳がつけばです、それは覚えとかなくても、自ずと下がっておるのである。
 そういうおかげを頂く為にです。どうぞ昨日から頂いておる障子一重がままならぬ人の身であるという、ね。そう言う事が分れば信心は愈々させて貰わなければ、熱心にならなきゃおられないというのですから。そこから生まれてくる信仰体験、そこから神様のおかげを頂かなければ立ち行く事ではないという思い込みが強うなってくる。ね、そういう思い込み、そういう有難い心を持って、御事柄を大事にしていく。ね、そこに愈々身に徳が付いて行く所のおかげが受けられると思うのです。
   どうぞ。